2017年06月07日 12:27
信をもっていい


と、ブラウン・ジェンキンは深淵の縁から落ちていき、はるか下のほうから鳴き声が聞こえた。
 老婆を殺したかどうかはわからなかったが、ギルマ淨水機ンは床に倒れこんだ老婆に手をふれることもしなかった。そしてふりかえったが、テーブルの上にあるものを見たとたん、理性をつなぎとめていた最後の糸があやうく切れそうになってしまった。ブラウン・ジェンキンが強い筋力と恐ろしく器用に動く小さな四肢にものをいわせ、ギルマンが魔女に絞めつけられているあいだも休むことをせず、ギルマンの努力を無駄にしてしまっていたのだ。犠牲者の胸にふりおろされるナイフを食いとめてふせいだ兇行を、毛むくじゃらの冒涜《ぼうとく》的な生物の牙が犠牲者の手首におよぼしていた――そしてついさっき床に落ちた鉢は、生気を失った小さな体のそばで、鮮血を満々とたたえていた。
 ギルマンは夢のなかで呆然《ぼうぜん》としながらも、果しない遠くから地獄めいた異界的なリズムをもつサバトの詠唱が聞こえるのを耳にして、暗黒の男がそこにいるにちがいないことを知った。記憶が混乱して数学の知識と結びつき、無意識こそが、正常な世界に――はじめて独力で――もどるために必要な角度をつかんでいるように思えた。自分の部屋の上にある、大culturelle 香港
昔から鎖《とざ》された小屋裏にいることには確信があったものの、傾いた床、あるいは久しく鎖されている出入口からはたして抜けだせるかとなると、はなはだ疑わしかった。それに夢のなかの小屋裏から抜けだせたところで、夢のなかの家にもどるだけではないだろうか――現実の場所にもどろうとしても、その異常な投影に入りこむだけではないだろうか。ギルマンは生まれてはじめて、夢と現実の関係について、まったく途方に暮れてしまった。
 ぼんやりした深淵を抜ける旅路は、ヴァルプルギスのリズムがひびき、これまでは隠されていた、たまらなく恐ろしい宇宙の脈動が聞こえるはずだから、すさまじいものになるにちがいなかった。いまでさえ、低い不気味な揺れのあることがわかり、そのテンポがはっきりと感じとれるのだから。サバトのときには、それは常に高まって世界じゅうに届き、秘儀参入者たちを名状しがたい儀式に誘うのだ。サバトの詠唱の半分は、かすかに耳にはいるこの脈動をまねているのだが、この脈動が本来の大きさになったものなど、地球上に住む者の耳では耐えられようもない。こういったことを考えたギルマンは、自分の直観を信じることで、はたして正しい空間にもどれるだろうかとも思った。あの遙かな惑星の緑色に輝く丘の斜面、あるいは銀河の彼方のどこかにある、触角をもつばけものたちの都市にはりだすモザイク舗装のテラス、さらには白痴の魔王アザトホースが君臨する、〈混沌《こんとん》〉という窮極の虚空の暗澹《あんたん》たる螺旋《らせん》状の渦動、そういったもののなかに入りこむことはないと、確きれるだろうか。
 ギルマンが身を投げだそうとする直前、菫色《すみれいろ》の光が消えて、あたりは真の闇につつまれた。魔女――老キザイア――ナハブ――名前はどうあれ、菫色の光が消えたことは、あの老婆の死を意味するにちがいなかった。そしてサバトの遙かな詠唱と、足もとの深淵でのブラウン・ジェンキンの鳴き声にまざって、未知の深淵からさらに荒あらしい別の声が聞こえるようだった。ジョー・マズレヴィッチだ――〈這《は》い寄る混沌〉を相手にしての祈りがいまや不可解にも勝植鬚利の絶叫にかわっているではないか――皮肉な現実性をもつ世界が熱にうかされた夢の渦動に影響をおよぼしているのだ――イア! シュブ=ニグラス! 千匹の仔を孕《はら》みし山羊《やぎ》よ!
 まだ夜明けまでかなり時間がある頃に、ギルマンは妙な角度をもつ古びた屋根裏部屋の床で発見された。すさまじい悲鳴によって、デロシェ、コインスキ、ドンブロフスキ、マズレヴィッチがただちに駆けつけ、椅子に坐ったままぐっすり眠りこんでいたエルウッド


上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

このページの上へ▲